正しいこと ≠ 流行りもの・多数派

私は年に2回、彼のことを考える日があります。

一つは彼の誕生日である11月29日に、もう一つは命日である4月25日。

もう過ぎてしまいましたが、三日前、やはり私は色々と考えていました。

 

言うまでもなく、彼というのは、故・尾崎豊。

 

私は彼の‘信者’ではありまえんが、20年以上前から彼のことを生徒に話したり、実際に歌うこともありました。

特に、教えていた生徒(担任でなく)が学校を退学したりした時、私は尾崎の曲をカセットテープ(如何にも昔という感じですが)に録り、送ってやったりしたものです。

それを聴いて、「何か、今の俺みたい」「スカッとする」「気持ちが吹っ切れた」「曲、教えてくれてありがとう」等々の反応。

 

今、私が気になっていることですが、数年前から、若者達が尾崎に共感しなくなったという…。

曰く、「何を怒っているのか分からない」独りよがりで意味不明」「バイクを盗んだら犯罪だろ」「ただの中二病じゃん」「ガラス割ってまわったりとか、引く」「時代遅れ」…等々。

 

尾崎に限らず、自分の価値観や趣味を他人に押し付けるのは愚かなこと。

私も、前述の通り、決して盲目的な信者ではありません。

しかし、尾崎の中に、強烈な人間臭さというか、(こういう言い方もステレオタイプなのかもしれませんが)若者にしかありえない精神の波動を感じるのを否定できませんし、強く心打たれるところがあるのは事実です。

 

私は学校現場(全日制)からかなり長く離れていますが、所謂、生徒の気質というか、そういうものが変わってしまっているのは感じます。

それこそ、尾崎が時代遅れ、ではないですけれど、かつて私は学校に勤めていた頃、自分の考え方や思うところを話し、全員ではないにしても、生徒から支持を得ていた時代がありました(自慢でも自惚れでもなく客観的に)。

しかし、恐らく今、学校現場に行って、当時と同じことを生徒に伝えようとしても受け入れてもらえないようにも感じます。

ただ、私は生徒ウケを考えて、迎合することはないでしょう。

 

どんなに時代が変わっても、人の心を打つもの。

普遍なもの。

それは決して多数決で決まるものではなく、むしろその逆であることが多い気がします。

 

生徒らに言うのと同様に、私は自分自身にも言い聞かせています。

自分が正しいと信じることを大切に。

他人がどう言おうが、それによって自分を変える必要は無い。

 

私は、また今年も11月に、そして1年後の春にまた彼のことを考えるでしょう。

恐らく10年後も。