先生と呼んでもらえる

この前の日曜、午後からサッカーの仕事(審判)で会場に行く途中、偶然に、18年前に高校で私が担任していた生徒のYに出会いました。

会うのもそれ以来です。

私は自転車、彼は徒歩で、互いに近づいてきたところ数十メートルのところでどちらからともなく気付きました。

大抵、何年も経ってから生徒と再会すると、向こうは十代→大人となっており、私からは一見で気付くことは稀なのですが(生徒の側からは私はすぐにわかるらしいですけれど)、Yは何故かすぐに分かりました。

 

残念ながら私は試合場へ向かう途中で時間が無く、ゆっくり出来なかったですが、それでも少しばかり立ち話しすることは出来ました。

・・・Yも色々と苦労しているようで。

本当はもっと沢山聞いてやりたかったですが、

実際、私に出来ることと言えば、それくらいしかないのかもしれません。

 

ただ、私がとてもとても嬉しかったのは、今でも私のことを「先生」と呼んでくれること。

近頃は‘先生’という呼称について、どうこう言われる世論もあります。

特にフリースクールなどではそうなのかもしれません。

例えば、よく、「先生という偉ぶったような呼び方をさせるのではなく、〇〇さんと呼ばせる」とか。

けれど、私は正直に言えば、生徒から、さん付けで呼ばれるのには違和感というかむしろ距離を感じてしまい、先生と呼ばれることの方に喜びを感じます(アス高で私を「山本さん」と呼ぶ生徒もいますけれど)。

私の感覚では、‘先生’というのは決して偉ぶった言い方ではなく、むしろ、他人行儀でない温かみさえ感じるのです。

 

‘それ’を決めるのは生徒でありますが、私からは「俺はお前らの先生や。そしてお前らは俺の生徒や」という感じ。

 

今はもう言われることなど殆どないですが、生徒から「先生はいつまでも自分らの先生です」そう言われること、思ってもらえることの感動。

そして、何年たっても、そう呼んでくれること。

それは、浅薄な平等主義とか、軽々しい関係でなく、日本の言わば‘学校文化’がもット大切にしてよいもののようにも思います。

 

Yは私の今の仕事を知らなかったようですが、互いに松江二いるからまた会えるよな。

ということで、その時は別れました。

彼の肩を叩いてやりながら、私を今も「山本先生」と呼んでくれていることに、こちらの方が力づけてもらった気がします。

 

また会おう。

俺も頑張ってるからな。

 

そうそう、この写真は知っている人はすぐに分かると思いますが、映画"Dead Poets' Society"(邦題「いまを生きる」)のシーンですよね。